戦争から見る京大オケの音楽

 京大オケはもうすぐ100周年を迎えます。その長い歴史の中で、たとえ第二次世界大戦のさなかでも組織活動を一度も停止することはありませんでした。
 今回の特集記事は、戦時中の京大オケの活動についてです。プロ・アマチュア問わず解散していくオーケストラが多かったのにも関わらず、なぜ京大オケは活動を続けることができたのでしょうか。音楽活動を続けることができた原動力とはなんだったのでしょうか。当時の団員の姿や置かれていた状況を振り返り、学生オーケストラとしての姿は何かを探りたいと思います。

戦争と当時の音楽界

 1939年9月にドイツ軍がポーランドに侵入し、第二次世界大戦が勃発した。この戦争は世界中を巻き込むもので、日本は三国同盟と日ソ中立条約を締結し、1941年に太平洋戦争に突入することとなった。大勝していたのも束の間、資源と科学技術の不足により戦局は次第に悪化し、全国の主要都市はほとんど廃墟と化し、国民は食糧のない窮乏生活を強いられた。原子爆弾の投下やソ連の参戦によって敗戦が決定づけられ、1945年に日本はポツダム宣言を受諾し大戦が終結した。
 日本音楽界においては、戦争が激化するにつれ、英米楽曲やジャズレコードの販売中止(1943)、個人の演奏会の開催禁止(1944)など国の音楽に対する規制は強くなり、多くの演奏団体や音楽学校、楽器工場、レコード会社などが活動を停止せざるを得なくなった。
 当時精力的に活動していたプロオーケストラも、空襲による練習所や楽器・楽譜の損失や資金難により、ほとんどの団体が活動を停止した。新交響楽団(現NHK交響楽団の前身)のみが月3回の演奏会を開催するほどであったという。学生オーケストラも例にならって活動を停止しており、1947年に同志社交響楽団、1949年に京都府立医大交響楽団が戦後初の演奏会を開いている。

戦争の始まり

 戦争が始まった当初から、学外での演奏の風当たりは強かった。必ず行われていた年2回の定期演奏会も、時には傷病勇士招待演奏会という名目で開催された。しかし、団員や卒業生の尽力と熱心な練習により、戦前と変わらない規模での演奏を催し好評を博している。なお、1939年の演奏会から常任指揮者がエマヌエル・メッテルから朝比奈隆に代わっており、京大オケがプロオーケストラになることを目指し邁進していたメッテルが去ったことで、京大オケは音楽面で大きな過渡期を迎える。いままでと変わらない音楽性を求めつつ、プロに頼らない学生主体の活動をするようになった。
 風当たりが強くなり学外での華々しい活動ができなくなったためであろうか、この頃から学内でレコードコンサートが行われるようになった。これは団内での一種の勉強会のようなもので、音楽史を振り返ったりレコードを用いて楽器や管弦楽解説を行ったりと、非常に凝ったものであった。当時のこういった研究講習会や講演会を「ほほえましき京都の音楽的青春!」と当時の団員は記している。活動範囲を縮小されたとしても自己の音楽への思いはとどまることを知らず、新たな活動を生み出す当時のバイタリティには感服してしまう。

理想と現実

 戦局が悪化しプロ・アマチュアを問わず数々のオーケストラが解散や活動停止しても、京大オケは決して活動をやめることはなかった。ただし演奏会の形式は、一般非公開や無料、練習場が会場(以前は学外の大ホールで演奏会を行っていた)といった、団の理想とは遠く離れたものであった。また、大学当局や配属将校たちの圧力から逃れるために、学生の分列式や各戦場の陥落式典などで小編成の演奏をすることもあった。学内の活動が中心となり、またドイツやイタリアなどの作曲家の作品を多く演奏するように制限されたが、演奏会の曲目自体は意欲的なままであった。1941年からの演奏会では、最初に《君が代》を演奏しなければならなくなったものの、ベートーヴェンの交響曲第6番《田園》やメンデルスゾーンの交響曲第4番《イタリア》といった大編成の曲を取り上げ、「聴衆はぞくぞくつめかけ、演奏前既に場外に溢れるという盛況ぶり」であったそうだ。
 そうはいうものの、戦局の悪化により団の運営が年を追うごとに厳しくなっていたのは確かである。1943年になると学生であっても召集されたり、勤労動員として工場に行く人も多かったため、団の運営も3回生から2回生が中心とならざるをえなかった。上級生の減少は団の演奏に大きく影響し、中には楽器を始めて半年で舞台に立つ者も出てきた。しかし、音楽に対する真摯な態度は変わることなく、練習場に行けば誰かが練習しているという伝統は引き継がれたままであった。また、レコードコンサートや音楽講座といった学内の活動はより活発になり、楽器を演奏するだけでなく音楽そのものに触れるということに、この上ない悦びを見出していたのだろう。

不屈の精神

 1944年になると各地で空襲が始まり、敗色濃厚となった。また、ついに京大オケからも戦死者が出て、追悼演奏会が行われるようになった。もちろん京大オケの活動に対する批判も多く寄せられるようになり、日中に音を出すと配属将校が飛んできて怒鳴り散らし、当時の音楽部長である堀場信吉がとりなすことも日常茶飯事であったようだ。堀場は文化的活動が戦争中の我が国にとって如何に必要かを、あらゆる機会を通じて学内外に訴え説得していた。いわば彼のおかげで京大オケが活動できていたと言っても過言ではなく、多くの支援者によって京大オケが守られていることが分かる。
 そのような尽力があったにも関わらず、戦争による団員の減少を食い止めることはできなかった。学徒動員により団の運営は1回生が中心となり、週2回の練習のために大阪や滋賀といった動員先から駆けつける者も少なくなかった。ゲートルを巻き不意の空襲に怯えながら、薄暗い電灯のもと練習をしていた団員にとって、音楽は癒しであり喜びや希望であったに違いない。
 敗戦間近の1945年。団員のほとんどが動員先から長時間移動しており、いつ交通手段が断たれるかもわからないために、思うような練習は行うことができなかった。また、五線譜が手に入らなかったために白紙に五線を描きパート譜にしたり、リードの材料が手に入らないために古いものや玉ねぎの皮を利用したりと、音楽環境は劣悪であった。ほかにも、ソリストの楽器を団員がリアカーで運んだり、演奏会当日のプログラムを黒板にチョークで記入したりと、今では考えられないようなエピソードが数多く残っている。このような環境下で行われた1945年5月の演奏会は、夜だと空襲警報があるために昼公演にし、応召していた団員は軍服のままステージに上がり、聴衆は防空頭巾で身を固めていたという。こうして戦中も決して欠かさず演奏会を行いぬいたのである。動員や空襲のために十分な練習や人が足りなかったとしても、音楽が到底できないような環境であったとしても、決して活動をやめなかったのだ。

戦争の終結

 1945年8月15日。玉音放送を聞いた十数人の団員は、喜々として楽器を取り大歓声を上げたという。終戦を迎えた団員たちは戦争の恐怖から解放されたという安堵と、これからは自由に思うまま音楽が出来るという希望に胸が高まったに違いない。廃墟のなかで彼らの生きる糧となったのは、美しい純粋な音楽であった。
 そしてすぐに戦後初の演奏会に向けて準備が始まったのである。軍隊や工場から次々と団員が戻って来て、総勢57名で演奏会に臨んだ。他の大学オーケストラが1950年頃まで活動を停止していたことを考えると、当時では相当充実した編成である。ベートーヴェンの交響曲やモーツァルトのピアノ協奏曲などを演奏し、会場は超満員であったそうだ。
 当時の団員の手記が残っている。

――戦後初の演奏会を行ったときは、一同まさに感激であった。苦しかった戦時中を切り抜け、先輩の残された偉大な足跡を絶やすことなく、次の代の人々に伝えることの出来た喜びで一パイであった――

 戦争という大きな困難に直面しながらも、それに屈することなく音楽に向かい合っていた当時の団員と関係者たち。決して学生が音楽を続けられる時代ではなかったはずなのに、それでもがむしゃらに活動する裏には、今では考えられないような苦労があったに違いありません。短期間で団員が変わっていく学生オーケストラだからこそ、一人ひとりの音楽に対する熱い思いを大切にして、長い歴史のあるこのオーケストラをこれからも維持・発展させていきたいと思います。

文:197期HP広報部